平日の昼に、カーテンを開けられなかった
引きこもりにとって、カーテンは、部屋と世間の境界線だった。
特に、平日の昼のカーテン。
カーテンを開けると、外と繋がってしまう
夜のカーテンは、別に平気だった。
外は暗いし、世間も家に帰ってて動いてない。夜は、世界全体が自分と同じぐらいの速度で、動いている(ように感じる)。
問題は、昼。
平日の昼、世間は、働いてる。学校に行ってる。通勤してる。
その時間にカーテンを開けると、外の光が部屋に差し込んで、光と一緒に、「働いてる世界」が、部屋に入ってくる感覚があった。
- 外で人が歩いてる音
- 車の音
- 遠くの工事の音
- 近所の子供の声
全部、「世界は動いてる、お前だけが止まってる」というメッセージに変換される。
カーテンを閉めると、時間が止まる
カーテンを閉めた部屋は、時間が止まってる。
- 朝でも昼でも夜でも、光が同じ
- 外の音が、ちょっと遠くなる
- 世間の動きが、遮断される
- 自分が「今、何時か」を、忘れていられる
引きこもり期に、カーテンを閉め切って生活する時期があった。数ヶ月間、部屋のカーテンが、昼も夜も閉まりっぱなしだった。
その時期は、部屋の中で、時間感覚が溶けてた。
起きる時間、寝る時間、飯を食う時間、全部、バラバラ。15時に昼食を食べて、夜中3時に朝食を食べるような生活が続いた。
外の光を入れなければ、自分の生活リズムと、社会のリズムの落差が、見えなくなる。
見えなければ、罪悪感も、少し薄くなる。
「見られてる」は、半分幻で半分本当
カーテンを開けられない理由のひとつに、「外から部屋を見られてる」という感覚があった。
- 向かいの家から見えてるかも
- 通りを歩く人に、部屋の中が見られるかも
- 髪ボサボサでジャージの自分が、誰かに目撃されるかも
これは、半分幻で、半分本当。
実際には、よほど近い距離・よほど明るい部屋じゃないと、外から部屋の中は見えない。日中の外から見ると、窓は暗い反射面にしか見えないことが多い。
でも、「見られてる気がする」感覚は、事実としてそこにある。
物理的に見られてなくても、見られてる気がするなら、それで十分しんどい。
レースカーテンだけにした話
カーテンを完全に開けるのは無理。
でも、レースカーテン(薄い方)だけは、開けたままにできる、という妥協点を見つけた時期がある。
- 厚手のカーテン: 閉める
- レースカーテン: 開ける
この組み合わせだと、
- 外からは部屋の中がほぼ見えない
- 部屋の中には、光だけが入ってくる
- 外の景色は、ぼんやり見える
光は入れたいけど、存在は見せたくない、の折衷案。
この状態にしてから、部屋の中の空気が、ちょっと変わった。
光を入れるだけで、体が軽くなる
レースカーテン越しの光を入れるようになってから、気づいたこと。
光が入ってる部屋と、入ってない部屋では、同じ引きこもりをやってても、体の重さが違う。
- 光がない部屋: 朝起きても夜みたい。体が重い
- 光が入る部屋: 朝は朝っぽい、昼は昼っぽい。気分が少しマシ
これは、メンタルじゃなくて、生理学の話(らしい)。日光がセロトニンの分泌に関わってて、セロトニンが睡眠と気分に影響する。
だから、「引きこもってるから日光が必要ない」は、実は違う。引きこもってるからこそ、レースカーテン越しでいいから、日光を通す方が、体が楽になる。
全部開けなくていい、一部だけでいい
カーテンを、一気に全開にする必要はない。
- レースだけ
- 厚手も少しだけ隙間を開ける(10cm)
- 一日のうち午前中だけ開ける
- 気分がいい日だけ開ける
全開にしない選択が、ずっとあっていい。
自分は今でも、気分によって、カーテンを閉め切って過ごす日がある。日中ずっと部屋が暗いまま、という日があっていい。
それで、体が動かないなら、それも含めて今日の体調。
カーテンを開ける日を増やすのが目標じゃなくて、カーテンを開けたい日に、ストレスなく開けられる、が、たどり着ける地点だった。
外と繋がる準備は、カーテンから始まる
カーテンが開けられるようになってから、他のことも少しずつ変わった。
- 朝起きる時間が、ちょっと世間に近づいた
- 部屋に光が入ると、掃除する気が起きる
- 光が入ると、着替える気が起きる
- 着替えると、外に出る可能性が、少しだけ上がる
これは「段階を進める」話じゃない。
カーテン開けた→光→着替え→外出、という自動進行があるわけじゃなくて、単に、光が入った部屋の方が、生活が少し軽くなる、というだけ。
外に出られなくていい。出なくてもいい。ただ、部屋の中の空気を、少しだけ循環させる、その第一歩が、カーテンだった。
全開にしなくていい。レースだけで、十分。